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スペイン エルカミーノ・デ・サンティアゴ旅行記

旅の日程表(19日間の旅でした)
6/2(水)   広島を出発、東京の娘の家で一泊
6/3
(木)   成田午前中出発 アムステルダム空港経由 マドリリッド着(深夜11時30分)

6/4(金)   10時30分 バスでマドリッド出発 14時30分ログロニョ着 標高 380m
6/5(土) 巡礼第1日目 早朝出発 ナヘラ着・泊  距離 29km 標高 500
6/6
(日) 巡礼第2日目 早朝出発  グラニオン着・泊 距離 27.5km 標高724
6/7
(月) 巡礼第3日目 早朝出発  トサントス着・泊 距離 21.2km 標高770
6/8
(火) 巡礼第4日目 早朝出発  サン・ファン・デ・オルテーガ着・泊 距離 19.2km 標高1000
6/9
(水) 巡礼第5日目 早朝出発  ブルゴス着・泊 距離 28km 標高860
6/10
(木) 巡礼第6日目 早朝出発  オンタナス着・泊 距離 29km 標高867
6/11
(金) 巡礼第7日目 早朝出発  フローミスタ着・泊 距離 35km 標高787
6/12
(土) 巡礼第8日目 早朝出発  カリオン・デ・ロス・コンデス着・泊 距離 19km 標高839
6/13
(日) 巡礼第9日目 早朝出発  テラディージョンズ・デ・ロス・テンプラリオス着・泊 距離 26km 
6/14
(月) 巡礼第10日目 早朝出発  ベルシアーノス・デル・レアル・カミーノ着・泊 距離 24km 標高 850
6/15
(火) 巡礼第11日目 早朝出発  マンシージャ・デ・ラス・ムーラス着・泊 距離 27km 標高 795
6/16
(水) 巡礼第12日目 朝出発   レオン着・泊 距離 20km 標高 838m 巡礼終了
6/17(木)   終日レオン観光 深夜バスでマドリッドに向かう
6/18
(金)   早朝 3時 マドリッド着 10時20分 マドリッド出発 アムステルダム空港経由で成田へ向かう
6/19
(土)   11時30分 成田空港着 成田エキスプレスで武蔵小杉経由で娘の住む元住吉へ向かう
6/20
(日)   東京の友人と会い、品川から新幹線で広島へ帰還

多分聞かれる質問

宿泊は?  
アルベルゲと言われる巡礼宿が各町にあり、着いた順番に宿泊できる。一杯になると、他の町まで歩いて行くか、野宿と聞いていたが実際には、野宿はなかった。

宿泊費は? 
巡礼宿によって違っているが、教会の運営するアルベルゲは寄付箱があるので、お金を入れる。普通は、5−7ユーロ程度。

食事は?
教会のアルベルゲは、夕食を教会が用意した食材をみんなで料理して、一緒に食べる。
料理のできない人は、テーブルに皿やナイフ・フォークを並べる。普通のアルベルゲは、
BARと呼ばれるレストラン(CAFE)が併設してある場合は、そこで済ます。
ない場合は、近所に
BARがあるので、そこに食べに行く。時間は19時前後。
食事代は、5ー10ユーロ。ビールを飲んだりしていると15ユーロくらいになることもあった。
スペインでは、14時から17時ころまで、ほとんどの店は閉まっている。
アルベルゲには、自炊設備もあるので、町のお店で食材を買って来て料理をして食べる人もいた。
朝食は、教会のアルベルゲでは、パンとコーヒがでるが、普通のお店ではないので、前日に購入したおいたパンやバナナを食べる。
多くの人は、まず1時間程度歩いたところにある町の
BARまで頑張って歩き、BARでサンドイッチやパンを食べる。
カフェコンレッチェ(カフェミルク)が温かくて美味しい。1.2ユーロくらい。
菓子パンと一緒に頼んでも2ユーロ前後。
BARには、手作りのオムレツなどの料理もあるので、昼食に頼むと一切れにパンをつけて出してくれる。

水分補給は?
ペットボトルも販売しているので、多くの人は2リッターのペットボトルを持って歩いている。
私は、500mlのペットボトルに、アルベルゲや
BARの水道水を入れていた。
途中
BARに立ち寄るとレモネードやコーラ・カフェコンレッチェ・カプチーノなどを飲んだので実際には、500mlのペットボトルが空になることはなかった。
天候が悪く寒かったので、あまり水分補給の必要がなかった。


言葉は?
アルベルゲ人やBARの人など、田舎町なのでスペイン語のみの場所も多く、英語は巡礼者の共通言語。
フランス人・ドイツ人・イタリア人・スペイン人が多く、時々スイス人・ベルギー人・ブラジル人などで韓国の女性が数名。
日本人には、途中1名ににしか会わなかった。ヨーロッパ人は各国語がしゃべれるのか似ているのか、自分の国の言葉を話す人が多かった。

日本語は特別語で通じる人はいなかった。1回アルベルゲのスタッフが日本語の単語を言ったが、会話としては通じなかった。
英語もほとんど話せない私が、よく大丈夫だったと不思議がられうが、旅の同行者(日本女性2名)に大事なところは、
確認をしてもらったらしたので全くの一人旅という感覚はなかったので、安心はしていた。
ただ、後半は、単独行動が増えたので、言葉の壁は感じた。最初は、音楽を聴くような会話も、だんだん何を話しているのか想像ができるようになった。
相手も、伝えようと一生懸命になるので、私は単語の羅列しかできないが、結構初歩的なことは通じていた。
ただ、
BARなどで、食事の注文を聞かれるとお手上げ。前菜・メインの指示を聞かれると全く答えられなかった。知恵をつけ、英語の話せる外国人を誘って
町に出て食事をすることにした。

トイレは?
サービシオンと言うと教えてくれた。アルベルゲは、人数からするとトイレの数が足りない。
60名に2個くらい。男女一個ずつというのもあるので、場合によったら、それぞれ1個ということもあった。
大抵は2
-3個。朝出発前は、争奪戦になるので、ゆっくりできない。みんなよりも30分早く起床して、真っ暗な部屋からトイレに向かうこともあった。
大抵は、出発して最初の町の
BARで済ませる。ただ、あまり早く出発すると、次の町のBARがオープンしていないこともある。
その場合は、次の町まで我慢するか、草むらに走るかどちらか。

BAR
で休む時は、飲み物・食べ物・トイレはセットのようなものだから、BARで奥の方法を見ながら歩くと、聞かなくても指さしてくれること多かった。
水洗式で、きれいにしていたが、町に入るとペーパーがないこともあるので必ず持参しておいた。


お金は?
出発前に、成田で30000円ユーロに交換。
スペインでは半分の地点のブルゴスで
ATMを使って400ユーロを出した。
使用するお金は、5ユーロが一番多く、あとはコイン(2ユーロ1ユーロ50セント20セント10セントなど)を使うことが多く。
BARなどで、金額が分からないときは、コインを広げると勝手にとってくれる。
分からないときは、5ユーロ札を出した。支払については、特別ボッタくられることはなく、レシートを出してくれる
BARも多かった。
大抵は2ユーロあれば十分だった。途中、大きな町で泊った、ホテルの一つ格下になる.
ホステルに2回泊ったが、40・70ユーロとアルベルゲに比べるとかなりの高額になった。
プラバシーは保てるが、旅の楽しさはなかった。
成田で日本円に換金した時に、20000円近く戻って来たので、スペインで実質使ったのは、50000円弱だった。
ホステル代金を引くと、滞在費の経費は、40000円くらいで済んだ。
空港で食べたり飲んだりちょっとした買い物の金額が普通よりも高額になるので、実質は、35000円もかかってないと思う。


連絡方法は?
国際電話は、高いのでなるべく使用しないようにした。
成田でレンタル携帯電話を借りた。料金は日本とは違うので、1回も日本にはかけなかった。
電話は、スペインで同行した彼女に現在位置の確認や宿泊先の確認などの時に使用した。
1回が1分180円で両者に請求書がくるということなので、なるべく使わないようにした。
メールは、1回100円くらと聞いていたので、もっぱらメールで日本と連絡をした。
メールの着信確認も1回50円くらいかかると聞いていたが、あまり気にせず使用した。
取引先でアドレスのわかるところには、絵葉書代わりにメールを入れておいた。



<旅日記>

ふとしたことから、行くことになったスペイン
そのため、事前準備はほとんどしないままの出発となった
知識・体力の両面の準備不足は、旅自体に大きな障害になったことは間違いがない。
昨年の8月、まずスペイン行きの話はあった。残念ながら仕事の都合で実現はできなかった。
その時、出発した二人組の女性たちの第二回継続巡礼に便乗しての旅というスタンスであった。

決心が遅れたせいもあり、結局、海外最初の宿泊地であるスペインのマドリッドのホテルで落ち合うことになった。

6月2日(水)広島から東京の娘のところ 新幹線利用

出発の前日、上京して娘夫婦のところに泊った。広島からは孫・娘と3人で向かう。娘たちの住んでいるところが、武蔵小杉から駅ひとつ元住吉。
これもラッキーであった。武蔵小杉から、成田へ1本で快速が出ていた。

しかし、元住吉から居住先までは歩いて10分くらいだったが、私にとっては、左足の激痛に耐えてかなり苦しい道のりであった。
今更、止めたともいえず、多少痛いような様子を見せたが、実際のところここから帰りたい心境であった。
出発の3日前、初めてトレーニングのつもりで、広島の自宅から往復5kmの元宇品まで歩いた。
意外と楽に歩けたので、宮島登山が効いていると錯覚した。帰宅してしばらくすると、左足に激痛が走り歩けなくなった。
なんとか仕事をしていたが、たまらず、出発の前日、整形外科へ行った。
以前から、出発まじか、腰痛治療や足の治療に来ているので、先生も「また来たか」という具合。
診察の結果は「ストレスからくる胃の衰弱。胃薬をあげるから、飲みながら行きなさい。」ということだった。
足の痛みと胃がどうつながってるのかは、よく分からないが貼り薬ももらってとりあえず出発した。

6月3日(木)元住吉から成田空港・アムステルダム経由マドリッド

武蔵小杉から成田エキスプレスにに乗って成田へ向かった。
2時間前の搭乗手続きには、早かったので、まず、携帯電話を借りる手続き、円をユーローに換金。
そして薬局に行きバッグにつけるカギや張り薬等を買い足した。
搭乗手続きは、ネットで予約しておいたのでプリントを渡すと、スタッフの方が自動発券機を操作して出してくれた。
問題は、野宿用のシートがバックから取れてしまうので、別にしてほしいということ。
段ボールを借りてステッキをばらして押し込み、ひとつの箱にして別便にしてもらった。
帰りは、旅の人にあげようと思った。言葉も通じないので、段ボールを調達することはできないだろうから。

飛行機は、11時間程度でオランダアムステルダムのスキポール空港に着いた。ここでマドリッド行きの飛行機に乗り換え。
ハブ空港なのでとにかく広い。事前にネットで調べた資料を手にとって見たが、結局、案内看板にそって行ったほうが安全だった。
2時間のトランジットの後、マドリッドに向かった。マドリッド到着は現地時間の23時30分。
荷物がで出てくるのを待っていたら、12時30分近くになった。
シャトルバスがあるからとも聞いていたが、深夜でもあったのでタクシーを使うことにした。
10ユーローくらいと聞いていたが、実際には空港に乗り入れたタクシーは別途5ユーロー程度の税金が必要と資料に書いてあったので承知していた。
暗い高速道路を通過して、5分程度でホテルに到着した。17ユーロー程度。
メータ表示がしてあったので、そのまま支払った。ホテルに着き、二人には無事到着したことを伝えた。そして就寝。
2時ころ、隣の部屋が騒がしくなった。ベッドはきしむ、女性の叫び声が響き渡る。スペイン最初の夜は、絶倫男女の叫び声で迎えられた。

6月4日(金)マドリッドからログローニョへ

眠い目をこすりながら二人がロビーに出てくるのを待った。なかなか素敵なデザインのホテルだった。
多くの観光客が朝食を済ませてロビーに集まって来ていた。すでに日本人の姿はなく。外国であった。
二人が出てきたので、連れの彼女に挨拶。なかなかの腱客と聞いている。
早速、バス乗り場まで行くために、町の周回バス乗り場に歩いて向かった。実際荷物を担いで感触を味わいながら10分程度あるいた。
8kgプラスカメラ。総重量は10kg程度。四国歩き遍路の時に比べると150%くらい。
バス停では、どのバスに乗ってバスターミナルまで行けばいいのか分からず、立っている女性に聞いた。
スペインでは、リュックなどは車内に持ち込みできない。バスの横にある収納
BOXにいおれなくてはならなかった。
バスターミナルも大きく、2時間ばかり時間があったので、コーヒショップでパンとこーヒーを注文。朝食とした。
大きなバスだったが、予約をしていたので、問題なく乗れた。
乗車時間は4時間。山間部にある今回の巡礼出発点ログローニョに向かった。
途中、大きな町に着くと、ほとんどの人が下車した。標高380m。
二人にとっては、昨年の最終地点なので、懐かしいようだった。
バス停から町の中を歩き回り、10分くらいで宿泊地であるホステルに着いた。
夕食の集合時間を決めて自由時間。部屋で、選択と荷物の整理をしながらのんびり。
しばらくして、街に散歩に出てみる。足の痛みは、ひどくビーチサンダルを履いて出たが、遠くには行けない。
ホステルの周りを考慮して30分ほど歩いてから部屋に戻った。
ホステルはセキュリティーが厳しく、入口は自動でロックされる。
まず、最初の難問は、どうやって中に入るか?誰かが入るのを待って一緒に入ることも考えたが、中にいる人に、外からドアを叩いてみると、
ブザーを押せば開けてくれることを教えてくれた。
これもスペイン語なので想像しただけ。
夕食は、彼女たちについて行くと、BARめぐりが一番楽しいという。
たくさんの
BARがひしめいているので、いっぱいのワインをはしごするのがこつだという。
結局3件くらはしごをしながら、料理もつまみ食い感覚。ちょっとふらふらしながら宿に帰還。
明日の出発は、5時ということ。4時起床になる。すぐに就寝。

6月5日(土)巡礼1日目 ログローニョ出発 ナヘラまで 29km

4時起床。フロント5時出発。さすがにあたりはまだ暗い。
歩くスピードは遅いと聞いていたが、実際彼女たちはトップスピードではないかと思うほどのスピードで出発。
大きな町なので、街中を抜けるのに30分近くもかかった。
固まった足は最初かなり痛い。
激痛が走るが、道が分からなくなる可能性があるので必死でついて行く。
街中でひとり巡礼者の男性を抜いて行く。スピードがないので早立ちをしたように思う。
街中を抜ける頃には、あたりも明るくなりはじめていた。
道には、巡礼道を示す貝のマークと黄色い矢印があるので、街中を出てしまえば迷うことはない。
他の巡礼者もちらほら見かけるようになった。
しかし、彼女たちは早い。このままでは自分の足も持たないと判断。
無理について行くのはやめることにした。池のそばを抜ける頃、太陽が出てきた。
美しい農園風景。立ちどまると、一瞬のうちに置いて行かれる。時々がんばって追いつくように努力はするが無理をしない。
街中を抜けていく貯水池のそばに出た。この辺りは公園になっているらしく、ジョギングを楽しむ人や、釣りをしている人に会った。
ここで太陽が顔を出した。あいさつは、「オラ」これで十分だった。公園を抜けるとブドウ畑が広がる。
途中、有名なウシのシルエットの看板があった。有名らしい。出発して13km、ナバレッタに着いた。

BAR
に入り、飲み物とパンを注文。足が痛く動けないので二人が買って来てくれた。
外のベンチに座って食べていると、どこから高校生くらいの女性の一群が現れ、隣のベンチに座って騒ぎ出した。
何かのお祝いなのだろうか、ぬいぐるみを持っている。
全員、顔よりも大きなサングラスをしている。そばにあるアルべルゲでスタンプを押してくれるというので持って行って押してもらう。
貝が置いてあったので、購入しようとお願いしたら下さった。
お礼に、「幸紙」をプレゼントした。説明がうまくできなかった。娘にメールをして英文訳を送ってもらうことにした。
出発直前、隣のグループに写真を撮ってもいいかと申し出たら、
OK!!乗りのいい連中だった。
ついでに集合写真も撮った。別れのあいさつをして出発。
この街の教会に入り写真撮影。暗いので苦心をしていたら、1ユーロー寄付したら、照明が付くよとアドバイスしてくれて、お金を入れてくれた。
これでばっちり。観光客かと思っていたので、お礼を言って出発。
畑の中を歩き、4km先のベントサ村に着く。
きれいな
BARがあり多くの人が休憩をしていた。休むだけのつもりで休憩。周りの人がお菓子などをくれる。
トイレを借りに
BARに入る。急に飲み物がほしくなり、店に入りレモネードを頼む。発音が悪く、なかなか通じない。レモナードでやっと出てきた。
外に出ると、さっき教会でお金を出してくれた男性が車のそばにいた。
どうも、巡礼者の荷物を運ぶ仕事をしているようだ。巡礼者の中に、荷物を担いでいない人がいる。理由が分かった。
ここから先、12kmブドウ畑を歩きながらナヘラに向かう。なんとか、二人に付いていく。
一か所狭い山道があった、いよいよかと思ったが、すぐに終わった。
途中、日本でもよくある石を幾段にも重ねたものが集団であった。かなり歩いた。
遠くに見える街がナヘラだと思うが、平坦な道を歩く。
本に出ている岩場の山が見えるので多分間違いないだろうと思うが、なかなか近づいてこない。
街に入る手前で壁に文字が書いてある。ここで記念写真を撮っている人たちがいる。どうも有名な詩が書いてあるらしいが、分からない。

街に入る頃に二人と合流。アルべルゲを探す。2軒あるらしい。
思ったよりも大きな街で、入った場所からどうも反対側にアルべルゲはあるらしい。
途中、聞きながらそしてお店で、翌日食べるバナナを買う。迷った挙句、川の向こうにあった目的ではないアルべルゲに着いた。
入口にはすでに10名以上の巡礼者が待っていた。もういっぱいなのかと思ったが、なんとか入れた。
一度に受付をしないで、数名づつ受付をしていた。
受付ではスペイン語。まったく分からない。巡礼者の証明書であるクレデンシャルを提示する。何を言われても分からない?
宿泊場所へ行くと、大きな部屋に2段ベッドが並んでいる。私は下のベッドになった。二人は隣で上下。まず、シャワーの確保。
1つしかないシャワーを30名くらいで共有するので、順番待ち。何とかシャワーにありつき、その後は洗濯。
2つある洗濯場で簡単に洗い。外の物干し場に干す。その後は、ベッドで休息と荷物の整理をする。撮影した画像の確認もする。
夕方、7時夕食に出かける。川のそばの
BARでビールと料理を頼む。
隣のベッドになった、イタリア人のアルドが来て同席して夕食を一緒にした。
英語の話せるアルドは、彼女たち二人と楽しく会話をしている。
私も、なんとか会話の輪に入ろうと試みるがなかなか難しい。
スペインでは、夜の9時30分くらいまでは明るい、地元の人も河原に来て遊んでいる。突っ張った中学生くらいの若者がのし歩いている。
夕食後は、少し街を散策。
私は、足が痛く歩くどころではなかったが、なんとなくついて歩く。30分ほど散歩をしてから、宿に戻り就寝。

6月6日(日)巡礼2日目 ナヘラからグラニオン 27.5km

6時30分には、アルべルゲの入口が開く。5時に起床して準備に入る。
あたりは、まだ熟睡中。音を立てないようにして、荷造りをしてから入口に荷物を出して再チェック。
すでに早立ち組は出発の準備完了。
アルべルゲに宮島から持ってきた「幸紙」を1枚寄進した。ブラジルから来ていた夫人が、欲しそうにしていたので1枚進呈。大変喜んでくれた。
6時30分前、ドアは開いたのでみんな随時出発して行った。
すでにあたりは明るくなっていた。麦畑を延々と歩いて行く。
次の村の
BARに立ち寄ってコーヒとパンを食べる。数名の巡礼者が休憩したが、パスする人も多い。
ナヘラから5.8km。近すぎるのだろうか。二人とは
BARを早く出発。
足の負担を軽くする。宿泊予定のサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダの街に入った。
街の広場にアルべルゲがあった。1件ではないようだ。
どこのアルべルゲかが分からないので、広場に座り二人を待ちながら前日買ったバナナを食べる。水分も使い果たした。
30分くらい待つと二人が現れた。今夜は、予定を変更して次のグラニオンに宿泊すると言う。
もう、6.5km歩くのは精神的につらかったが、なんとか気を取り直して出発の準備をした。
観光案内所でスタンプを押してもらう。街の中をしばらく歩くと、道の真ん中や教会の前に、花びらで作った絵がたくさん飾ってあった。
何かのお祭りがあるのだろうか?分からないまま街を出て、グラニオンに向かった。グラニオンには、私の方が先に着いた。
どうも二人は道を間違ったようだ。教会の前に着くとお祭りが始まっていた。写真を撮る。
子どもたちは喜んでカメラの前に立つ。しばらく二人を待つが来ないので、聞きながらアルべルゲに入った。
教会の施設の中にあった。狭い階段を上って行くと、受付があった。
スペイン語なので、通じないが前日の受付風景を思い出し、パスポートとクレデンシャルを出した。
前日の宿泊先や国籍を聞かれたが、なんとか宿泊
OK。天井裏のような場所にマットが並べてあって、一人一つがマイスペース。
開いている場所に荷物を置いて確保。シャワーを浴び、洗濯をして干す。
多分明日までには乾かないだろう。教会の倉庫のような場所に干した。順番に入るので、男女の区別はない。
隣は、40歳くらいのヨーロッパ人の女性。年配の女性は、下着1枚になって着替えているが、誰も気にしていない様子。
ちょっとびっくり。プライベートは全くないことを知った。
カメラやパスポートもあるので荷物をうまく隠して置く。間もなく二人も到着。同じ屋根裏部屋に泊ることになった。
20人くらい。このアルべルゲは、教会なので食事は用意された食材をみんなで作って食べる。
その後食堂で30名近くで食事会。みなさん、楽しそうに会話を楽しんでしる。
ワイン・サラダ・スープ・パンお腹がいっぱいになる。みんなで集合写真を撮る。みんな、撮ってほしいとカメラを渡された。
10台以上預かった。巡礼者の一人は、写真を撮らないでとはっきり言うので、顔面に了解して入らないように配慮した。
食事後のちょっとした時間に、会話が弾む。写真好きなイタリア人が自分の撮った写真を見せてくれた。
なかなかうまい。日本人とは、また、違った感覚の写真を見て、「素晴らしいカメラマンだ」とほめたらそして本人は大変喜んでいた。
ミサがある。教会に行く。祭壇が見える一室にみんなが集合して、ローソクを灯して自己紹介や、讃美歌を歌う。
撮影をしてもいいと言われたので、撮影をしていたが途中で巡礼者の人が、もういいでしょと言ったので撮影を中止。
私自身もまずいのではないかと思っていたので、即やめた

6月7日(月)巡礼3日目 グラニオンからトサントス 21.2km

朝朝食をいただいて出発。630分。それぞれが既に出発している。
丘を下って行くとあとは丘の上の両サイドを畑に囲まれた一本道をただ進むだけ。道のわきには、赤いポピーなどの花が咲き乱れている。
緑と赤のコントラストが美しい。そんな景色の中を、激痛を抱えながら
30分も歩くと、足の痛みは麻痺して、痛みが薄らぐ。
このチャンスに出来るだけ距離を稼ぎたい。立ちどまって写真を撮ると、すぐに後ろから追いつかれる。
太陽が出はじめる頃、空気は冷たく気持ちが良い。
途中いくつかの村を通り過ぎていく。ベロラードの町の広場では市が出ている。BARに食事をとる。
コーラとパンをかじる。周りには巡礼者もいる。二人が追いついてきた。
30分ほど休憩して、再び出発。宿のあるトサントスを目指す。
トサントスのアルべルゲは教会が運営している。町の真ん中にある。そばには大きな道路があり、大型トラックもたくさん走っている。

2
階の部屋にマットが10枚くらい敷いていた。一番端をゲット。
隣はスイス人の男性。シャワーと洗濯を済ませ、少し休んで、痛い足を引きずり外に出た。
道路の向こうの山の中腹にビルヘン・デ・ラ・ペーニャ教会が見えたので行ってみたかった。
10分ほど歩いて登る道を探したが、見つからず下から数枚の写真を撮った。綿のようなものが、あたりを飛びまわり綿雪のように美しい。
木の花か実が飛んでいるのだろう。
30分ほど歩いてアルべルゲに戻った。
イタリア人のアルドが、BARに行こうと誘ってくれたので、再び道を横断して入った。中には、同行の二人がネットをしていた。
BARは基本的には、立って飲み食いをする。少し話をして支払いをしようとしたら、アルドガ手を振っていらないと合図した。
甘えることにした。私も、
hotmailに登録していたので、30分1ユーロの代金を払って、MIXIhotmailに接続をした。
パソコンのキーボードも日本とは違うので、二人組に教えてもらいなんとかつながったが、日本語が打てないので、
MIXIにローマ字で入力をして終了。
18時からミサがあるのでアルべルゲに戻る。
ミサは、あの山の中腹で行われることを知った。みんなで、歩いて登る。
標高差は50mくらい。展望は良い。
しかし、中は撮影禁止ということで、外観しか撮ることはできなかった。
小さな教会ではあったが、荘厳な雰囲気の中で行われた。
言葉も分からない私は、静かにしているだけだった。最後に隣の人と握手をして終了。
下山をして行った。アルべルゲに戻ると、今度は夕食の準備をみんなでする。
料理をしない私は、手伝うこともないのでうろうろするばかり。
テーブルセッティングをしたのち、外に出て暇そうにしている男性軍と話をした。目の色についてである。
ついでに4名の人の顔写真をアップで撮った。いろんな色の目があるものだ。夕食は全員がテーブルに座ってする。
雑談の渦。みんなよく食べる。食事後、みんなで記念写真を撮った。
希望者からは、メールアドレスを聞いた。そしてアルべルゲの人に「幸紙」を進呈した。

6月8日(火)巡礼4日目 トサントスからサン・ジャン・デ・オルテガ 19.2km

ホテル宿泊

朝食があったので、コーヒーとパンをかじって出発した。雨が降っている。難所の一つ。
丘越えだ。最初は小さな村が2kmから4kmごとにあったが、
OCAの街を超えると、今夜の宿泊地のオルテガまで12kmの山越え。
最後の街に入り
BARで休憩する予定だったが、目的のBARはお休み。
ドライフードを二人からもらいかじる。水分も心配だったが、仕方ない。
ここから急こう配の坂を登って行く。有名な難所オカの山越えの始まり。
石段はないが、とにかく急こう配を登って行く。二人よりも少し早めに出発して行く。
展望のいい場所が何箇所かあったがパスをして、ひたすら歩く。
森を通過してして行くと、標高
1165mのペドラハ峠の頂上に着く。
ここにはフランコ時代に戦死した人々のタメの記念塔があった。
グラニオンで隣で寝ていた彼女が休憩をしていた。足をいためているようだ。
二人が追いついて来たので、また先発で出発。
急な坂を下ると、それ以上に急こう配の坂道を一気に登る。
その後は多少のアップダウンはあるが、尾根を歩いて行く。
どうも水か、薬に当たったのか腹具合が良くない。時々藪には仕込む。
二人には、いつの間にか抜かれたが、追いかける気力はない。多くの巡礼者に抜かれて行った。
最後は、山を越えたら村があったというような感じで、たどりついた。
アルべルゲではなくホステルを予約していると聞いていたので、それらしい宿に入り聞いてみたが、スペイン語で分からない。
少し先に教会があったのでそこに行ってみると、二人が外のベンチに座っていた。
ここはアルべルゲと
BARが一緒になっていた。
中に入りパンとコーラーを注文して外に持ち出して食べた。
顔見知りの人たちが顔を見て合図をしてくる。ここのアルべルゲに宿泊する人も多いみたいだ。
その後、私たちはホステルに行き、各部屋に入った。久しぶりのプライバシーが保てる。
シャワーを浴び洗濯をしてからしばらく横になって休憩する。
夕食は、あの
BARですることになっていた。教会の中を見学したりしながら夕食を済ませて部屋に戻り就寝。明日も6時出発。

6月9日(水)巡礼5日目 サン・ファン・デ・オルテガからブルゴス 27.6km 

朝、6時30分にアルべルゲの前に集合。
前夜知り合った、韓国の男性の巡礼者がブルゴスの道は、迷いやすので同行したいという申し出を受けて二人は行くことにしたらしい。
私は、一人で早めに出発した。いよいよ都会ブルゴスに向かって出発。
途中、アタプエルカの街にはいると80万年前の人類の痕跡という看板を見ながら歩く、丘を登り頂上の十字架を見て下りに入る。
結構寒い。道を間違い、みんなとは違った道を歩いた。途中の街をパスして行った。
標識が二つに分かれていたのは知っていたが、前の人について行ったら、後ろは誰もいなくなった。
やっと丘を下ると街があり、たくさんの巡礼者の人の群れに出た。休憩をとる。
寒いので暖かいカフェコンレッチェを頼む。
神父さんたちも入ってきて横に座った。先ほどの頂上で出会ったので、結果的には同じくらいの距離だったのだろう。
二人が前にいるのか後ろにいるのかは分からない。ブルゴスは大きな街なので、標識がはっきりしないのでまずは大聖堂を目指していくことにした。
街に入ってからが結構距離がある。工場地帯をただ道に沿って歩く。バスに乗って行く巡礼者も見た。
道は二手に分かれていると地図には書いてあった。どちらを歩いているのかは分からない。
聞きながらなんとかたどり着いた。
二人はまだのようだ。聖堂の前のベンチに座って待っていると、観光客が私にカメラを向けてくる。
中には、一緒に撮りたいという人もいる。傘が珍しいのだろう。
合わせて、私が座ったベンチには、銅像が座っている。多分有名な人なのだろう。
そのアンバランスが受けたようだ。中学生くらいの軍団が来て、好奇心旺盛に質問をしてきた。
傘を貸してあげたら喜んで記念写真を撮っていた。
しばらくすると、別のルートから宿に着いた二人の一人が迎えに来てくれた。
どうもちゃんした巡礼道があったようだ。今日は一番ちゃんとしたホテル、料金も高いが、格調高いホテルだった。
聖堂のすぐそばにあり、セキュリティもしっかりしていた。
まず、部屋に入り荷物の整理と、シャワーと風呂。洗濯を済ませて休憩。
夕食前に聖堂に行ってみた。5ユーロと入口に書いてあったが、巡礼者は半額にしてくれた。
中は素晴らしい聖堂だった。撮影禁止ではなかった。フラッシュを使用しなけらば
OK。感度1600は助かる。
手振れ防止と併用すると。薄暗い教会の中も撮影は可能。バンバン撮った。
夕食の7時まで部屋で休んでから、聖堂前で集合。夕食を食べに行った。
すでに彼女たちは、外に出て買い物などをしてめぼしい店を見つけていた。

BAR
にはいり、ビールとおつまみを注文。外に出るとイタリア人のアルドとサンディーが食事をしていた。
同席して歓談しながら夕食。食べたりないのでパエリアを頼んで食べたが」多すぎてギブアップ。
チキンをナイフとフォークで食べていたら、アルドガが不思議な顔をして、どうしてかぶりつかないの?良いのか?と笑いながらかぶりついた。
夕食後、現金が少なくなっていたので
ATMで出金。カードを使用したことのない私は、二人に頼んだ。
ATM
はいくつかあったが、言語が分からないので、どう操作していいのわからない。使えない機会もあった。
結局、うまく引き出してくれたので助かった。ただ、50ユーロ札が出てきたので、使いづらいことが判明。
どこかでうまく両替そしてもらうことにした。やはり、5か10ユーロが一番使いやす。
ただ、金額が分からないので札ばかり出していると、コインがどんどんたまって重くなる。
時々、調整の必要を感じた。

6月10日(木)巡礼6日目 ブルゴスからオンタナス 29km

ブルゴスのホテルを6時30分に出発、街中を抜けて行く。
雨が強く、風が強い。カメラをリュックに入れて出発。撮影を断念した。
ただ、畑の中を歩くだけ。道は粘土質なのでぬかるんで、田んぼの中を歩いているような状態だった。
靴底には泥というか土というかこびりついて、歩くたびに身長が伸びていくのがわかる。
前や後ろのことも気にしている暇がない。ただひたすら歩くだけ。道はワダチがひどくどこを歩くかが疲労の度合いを変えた。
道は相変わらずまっすぐで畑の真ん中。風が強いので顔も下げて歩く。
後ろから、迫ってくる気配がした。女性が一人。抜かれるの悔しいが、今の自分の足の状態を考えると、仕方ないとあきらめ、道を譲った。
「エルカミーノ」とあいさつ言葉を言ってさっと抜き去り前に出て行った。
人間は不思議なもので、前に人がいると少しスピードを上げて抜いていくが、抜いた後は、そのんなにスペードがつかないのか差がつかない。
彼女も、この道に苦戦をしているのがわかる。
そのうち、この道の攻略法が思いついた。無理やり歩こうとしないで、滑って行けば楽になるのではないかと。
アイススケートの要領で泥の上を滑ってみた。
バランスは持っているステッキを使う。案外これがうまくいき、スピードも上がり足の負担も減った。
これだとばかり実践していくと、追い抜いた彼女に追いつき簡単に抜き去った。彼女もびっくりしたようだ。

アルべルゲについたが、まだ、二人は付いていない。
数件のアルべルゲがある様なので、しばらく前で待っていたが、寒いのでアルべルゲの中にある
BARでビールを飲んで待った。
大勢の巡礼者が入ってきたので、満席になるのを恐れて電話をしたら、まだ、着きそうにないという。
何とか二人が到着したので、登録をして部屋に入った。
人数の割にトイレもシャワーも数が少ない。探してみると、別の場所にもあることが分かり、使う。
誰もいない。独占だった。洗濯も雨が降っているが、続くので乾くだけ乾かして、持って行くことにした。
夕食は込み合っていたがなんとかありついた。

6月11日(金)巡礼7日目 オンタナスからフロミスタ 35km

雨の中を出発。
オンタナスを出発して、1時間半くらい歩いたところの村に入ると、サンアントンの修道院跡がある。
ここで雨を避けて、荷物を整理しながら休憩。再び出発。
遠くに城とマンサリーノのマリア教会が見えてくる。教会に向かって細い道を入って行くとカストロヘリスの入口に着く。
教会の前の
BARでコーヒを飲む。
気温は低いがカッパを着ているので、寒さはあまり感じない。出発して山の上のお城を見上げながら街を抜けていく。
古い町のようだが人が見当たらない。別のところに住みやすそうな家が建ち始めている。
これも時代なのだろうと思いながら歩く。だいぶ歩いて山道にかかり登り切って頂上に出る。
モストラレスの丘。振り返ると、先ほど通った山城のような山が遠くにかすんでいる。
案内本にもこのショットが紹介されていたので、名所なのだろう。そこから丘を下り1時間強ほど単調な道が続く。
古い橋を渡ったり、美しい植林林などの写真を撮りながら歩く。
ここがブルゴス県とパレンシア県の県境。モニュメントがあった。また、昨日の彼女に会った。
当初追い越して行ったが、地元の工事車両が道から落ちて立ち往生していた。
押してほしいということで、手伝った。レッカー車が来たので先を急ぐことにした。しばらく一緒に歩いてから、
BARに入りコーヒーを飲む。
コヒーをおごってくれるとお金を受け取らないので、傘を貸してあげて写真を撮ったり「幸紙」をあげた。
同じアルべルゲに宿泊すると言うので同行することにした。
目的の手前の街に着いたときに、昼食を食べようと彼女が言いだし、少し道から外れたアルべルゲに行った。
プールの付いた素敵な、アルべルゲ。民間がしているようだ。
ここで昼食を食べた。彼女はよく食べる。
私は昼食はあまり食べないと言ったら、驚いていた。
スペインでは、昼食を一番食べ、朝・夕は軽くすませると言っていた。スープにメインでデッシュ。私はスープだけ注文をした。
これだけでも満腹になった。突然、彼女は今日はここに泊ると言いだした。
私は、二人との約束があるので予定通り次の街のアルべルゲに宿泊すると伝え一人で出発した。
このアルべルゲには、先日来よりよく一緒になる韓国の女性も泊っていた。
このアルべルゲのスタッフは、日本語の単語が話せたので驚いた。
ここから、6km先のフロミスタに向かう。
道中、カスティージャ運河が見えてきた。運河沿いに歩き水門の上を抜けていくとフロミスタの街が見えてくる。
ここもアルべルゲはいくつかあるようで、二人に電話をした。教会の前のアルべルゲに泊っていると、先について待っているということ。
なんとか探して登録。すでに多くの人が入っていた。二段ベッドの上。
3人組のドイツ人グループの中だった。
いつものようにシャワー・洗濯を済ませて、横になっていると、スペイン分の男性が入ってきて荷物を下のベッドの前に置いたので、
すでに人がいるよと伝えたが、ダメ、荷物を置いてどこかに行ってしまった。
その時、下の3人はいなかったので、勘違いをしたみたいだった。
帰ってきた人に、事情を伝えたがうまく伝わったかは分からなかった。
喧嘩になっても困ると心配をしながら、街を散策に出た。相変わらず、街には人影もない。
どこに人はいるのだろうか?教会のミサに参加。
そして街並みを撮影して戻ると、先ほどの荷物はなかった。
うまく解決したようだ。
夕食を二人とすることになっていたので、7時に集合、近くのBARに行く。
この
BARはメニューに写真が入っていたので、お好みが頼めた。ビールとスパゲッティ。
店の中は、巡礼者や街の男たちが来て賑わっていた。夕食後は、二人はネットをしたいということで解散。戻って就寝。

6月12日(土)巡礼8日目 フロミスタからカリオン・デ・ロス・コンデス 19km

いつも通り、朝6時30分出発。
一人旅を続ける。
村にはドンキホテーのような像があった。
3.8km来た最初の街のBARはパスして次の街に向かう。
途中、牧場のような
BARがあったので、ここで休憩をすることにした。のんびり行こう。カフェコンレッチェを頼み、一息入れる。
抜かれることにも抵抗はなくなっていた。店には韓国の女性がいた。英語で話しかけてきた、顔が似ているのでなんとなくほっとする。
しばらく話しをして、彼女は出発して行った。だいぶ、足が疲れている様子だった。
単調な道が続く。そばには舗装された道路が並行して走っている。

不思議な経験をした。
一人旅、単調な道を歩く。前後には多くの巡礼者が歩いている。
ひとりだとペースを落とし足をかばって歩く。
そのため、どんどん抜かれていく感じがする。痛みに耐えている時に、いつものように「エルカミーノ」が聞こえた。
左側を見ると、ピンクのシャツを着たひげの男性が笑いながら私を見た。
「エルカミーノ」と返事をして、前を見た。
しかし、しばらくしても抜いて行かない。
どうしたのかなと、振り返ると誰もいない。
50mくらい後方に、先ほどから歩いているダークグレーのポンチョをかぶった男性がいるだけ。
どこか、脇道にでも入ったのかなと見渡したが、その様子もない。
何度も何度も振り返ったが、結局その男性を見ることはなかった。
つらい時に、ふと現れて励ましてくれた神に思えた。
しばらく歩くと、街に入りBARの印が見えた。50mほど巡礼道から外れていたので、パスした。
100m先にバス停があったので、雨を避けてここで休憩することにした。
荷物を下ろし休憩をしていると、昨日、手前のアルべルゲに泊ったモンセが追いついて来た。
朝6時に出発したそうだ。6km手前早出とスピードで追いついたことになる。
モンセは、ストレッチをしながら足の心配をしてくれた。10分ほどして一緒に出発。
途中、英語で話をしながら次の宿泊地に向かった。かなり、スピードダウンをして私に合わせてくれていた。
足を痛めたフランス人の男性に追いついた。
彼はフランスから出発したと言っているらしい。カメラを見せてもらうと2400km余りの標識が映っていた。
その場所から歩いて来たらしい。彼女は話をしながら3人で歩いた。彼女の名前はモンセ、二人の間に入って通訳をしてくれる。
いろいろな言葉が話せる。途中、馬に乗った巡礼者に出会った。カーボーイの一団かと思った。
街に近づくと、フランス人の仲間が迎えに来ていた。
一緒に写真を撮ってもらう。彼らは、別のアルべルゲに宿泊するというので分かれた。
モンセと二人で街の教会の近くのアルべルゲに着いた。
13時からでないと、受付をしてくれないことが分かり、少し戻った案内所で話を聞いて、道の反対側の
BARに入った。
オムレツとコーヒーを頼んだ。
外のベンチに座って食べていると、大雨になり、道は滝のように水が流れた。
巡礼者もずぶぬれ。いつもの気難しいドイツ人の男性が、今夜はプライバシーのあるホステルに泊ると言って行った。
二人がずぶ濡れになって到着。案内所に行った。
12時30分になったので、4人でアルべルゲの前に行き、順番を待ったら間もなく開門した。
教会の運営するアルべルゲ。2階の奥にベッドが確保できた。
いつものように荷物を整えシャワーと洗濯。雨がひどいので乾きそうにないので、様子を見て乾燥機を使うことにした。
ドイツ人の男性は、結局私の隣のベッドに来た。
6時から、1階でコンサート、7時からミサがあると知らされた。
モンセが、こんばんは自炊をしてスペイン料理を作るから、一緒に食べないかと提案した。
すぐに賛成楽しみにした。コンサートはシスターたちがギターを弾き何曲かみんなで合唱。
モンセや二人組も参加して歌っていた。
私は、時々写真を撮りに行く程度。あの道すがら大きな声で歌っているスペイン人の男性も参加して、独唱、大喝采を浴びていた。
ミサは8時からということになり、訳も分からずいつものように参加した。
半分くらいの巡礼者が参加していた。地元の人も多く参加していた。
最後は、恒例の握手会。その後、アルべルゲに戻り、モンセの作ったスペイン料理をいただいた。
他の連中も一緒に食べると言いだし、5名くらいの男女が同じテーブルに着いた。
他の人たちは、別の料理やスイカを持ち込んだ。誰かがオムレツを作って来てくれた。
モンセにオムレツの話をした。以前女房が作ったオムレツを、美味くないと言ってしまった。
それからは、いくら言っても作ってくれないと言うと。当然だと笑った。ここでも国際交流。モンセが、英語で他の人のことを話してくれる。
その後、洗濯ものを見に行くと、全く乾いていなかったので、乾燥機にかけようとモンセとそう出して行ってみると、10時でタイムアウト。
濡れた洗濯ものを、持って出発することになった。
その後、フィジカルセラピーだというモンセが、「タカオ、ストレッチしなくては駄目」と言って、ストレッチを一緒にしてくれた。
痛い。痛いと騒ぐ。周りの人たちは笑って見ていた。

6月13日(日)巡礼9日目 カリオン・デ・ロス・コンデスからテラディージョス・デロス・テンプラリオ 26km

5時半すぎトイレに起きてみると、すでに出発の準備をしている人たちがいる。
6時30分には開門となる。昨夜話をした千葉から来た男性は、すでに出発の準備をしていた。
雨を予想して、カッパを来ていた。1日45kmだから、早立ちは必須。他にも数名いた。
私も早めに出ようと、6時過ぎには荷物を玄関付近に持って降りた。
モンセも準備をしていた。だいたい起床時間も同じくらいだった。
今日は40km行くと言っていたので、これでお別れだと思い、挨拶をした。
すると
BARに行ってコーヒーを飲まないかと提案をしてきた。断る理由もないので、一緒に近所のBARへ行った。
ホステルが運営している
BAR。ちょっと高級な店だった。
何人かの巡礼者が朝食をとっていた。フランスから来た彼もいた。
相変わらず氷を持って痛めた足を冷やしていた。モンセはしばらく話をして、出発することになった。
昨夜のストレッチのおかげで、少し足が楽に感じた。
まずは、次の
BARのある町までは、17km今までで最長である。途中どこかで休む予定にしていた。
モンセは、足の気遣ってスピードを落としてくれているようだ。
しかし、私にとっては、やはりハイスピードだ。街を出るとあとは、まっすぐな畑が両サイドに続く道を進む。
途中で、何人かの人を追い抜く。写真好きの
ENZOもいた。
彼は、写真を撮るので先に行けという。スペイン人の彼は、モンセに合わせて並列で歩く。
3人が並んで道を進む格好になる。
しかし、モンセは話好きなのか、歩いている間話をする。
スペイン語ではなく英語。いい加減にあいずちを打っていると「アンダースタンド?」と聞いてくる。歩きながら必死で英語を聞く羽目になる。
写真を撮る暇がない。スペイン人の彼が一緒になったときは、話の矛先が向こうに向いたので少しほっとした。
二人は、スペイン語で話をしている。
ところが、時々「
He say」と通訳をしてくる。家族のことなどを説明してくれる。
こちらが返事をすると、彼に通訳してくれる。
結局、17kmを一回も休まず、時速6kmくらいのスピードで歩ききった。
私としては「私は、足が悪い。モンセは本日40km歩くと言ってる。私は本日26kmで終了。私にこだわらず、先に行きなさい。」

BAR
でオムレツとコーラを注文した。
外で食事。モンセがまた、オムレツのことで、みんなに話をしてからかう。先に着いた人たちも15分程度休憩をしたら出発する。
二人も追いついてきて休憩をする。私は、モンセたちと出発することにした。
6名くらいで、出発。
しかし、私は一度休むと、しばらく足が痛いので、相当なスピードダウン。
モンセグループにはついていけなかった。30分も歩くと見えなくなった。
ちゃんとお礼も言えないままモンセと分かれたのは心残りではあったが、これも縁と思い自分のペースで歩くことにした。
やはり、かなり無理をしたせいかスピードは大幅にダウン。
抜かれていく。目的地の手前3kmのところの街着いた時に、たまらず
BARに入りコーヒー休憩。
数名の巡礼者の人がいた。夫婦連れ、そして気難しそうなドイツ人。
彼は、今日はこのアルべルゲに宿泊するらしい。ちょっとみんなとは外した宿泊をしたがる。
あまり休むと足が固まるので、無理をして出発。しばらく行くと街に入る前に、モダンなアルべルゲがあった。
騎士団が運営するアルべルゲがると聞いていた。ここがそうかなと思いつつ、ここには二人は宿泊しないだろうと思ってパスして街に向かった。
今までの例から言うと、教会の近くに宿泊することが多かったので、電話の確認をしなかった。
街について街の人にアルべルゲの場所を聞きながらたどり着いた。民家のような素朴なアルべルゲだった。
私は気に入り勝手に宿泊手続きをとった。
洗濯物が連日の雨でたまっていたので、6ユーロ出して洗濯・感想を頼んだ。
シャワーを浴び、部屋でしばらく休んだ。アルべルゲの人には、あとで二人来るからと告げた。
部屋に入ると、長身ののイタリア人が一人いた。5人部屋。アルべルゲの門には、目印に傘をぶら下げておいた。
しばらく休んでから、庭に出てビールを飲みながら座っていると、二人がやってきた。
先ほどのモダンなアルべルゲに宿泊することになったということだ。
別々の宿で宿泊することになった。次の宿泊先を確認をしてから彼女たちは戻って行った。
7時過ぎ、このアルべルゲはレストランになっているので、食度に集まって食事をすることになった。
日本人は誰もいない。親しい人もいない。
昨日のモンセたちの夕食が懐かしく感じる。いくつかのテーブルに分かれて食事をしていた。
空いたテーブルに座ると、みんなが座っていて空席に座るように誘われた。
座っては見たものの、知り合いはいない。言葉はスペイン語とフランス語。まったく何を言っているかは分からない。
店の女性が注文をとりに来たが、何を言っているかかいもく見当がつかない。
そうしていたら、英語の話せるスペイン人の男性が前菜・メインを注文するように言ってると説明してくれた。
たぶんそうだろうと想像した。前菜はスープかサラダ?のようだ。
メインは、魚と肉と言っているようなので、スープと肉と答えた。
ワインとパンはテーブルにあり無制限。店の人が、スープを実際に持って来て見せてくれた。

OK
の合図をして問題解決。同じテーブルでは、日本人が珍しいこともあるのだろう。
いろいろと質問をしてくる。英語は少ししかわからないと伝えると、言い方を変えてくる。
なんとかコミュニケーションを持ちたいと思っているので、ニュアンスだけでもずいぶん伝わってくる。
1時間ばかりかけて夕食を終了。お金を払って部屋に戻る。
10ユーロ弱。部屋には結局、イタリア人の人しかいなかった。
アルべルゲの人の好意に感謝した。別のアルべルゲに宿泊したことを私も彼女たちも詫びたので問題はなかった。

イタリア人と少し話をした。ヴィンセントという。ジェノバから来たという。
息子はミラノ、娘はフィレンチェに住んでいるという。孫もそれぞれいるらしい。
私も、一人孫がいて、まもなくもう一人孫が生まれると言うと、親近感が湧いたのだろう。
いろいろ話をし、是非、ジェノバに家族でおいでと言ってくれた。
今は二人暮らしなので、家は広いのでゆっくり出来るからと言ってくれた。
明日の朝は、チョレートを入れるから一緒に飲んで行けともいわれた。たぶんそう言ったように聞こえた。

6時に起床するからとも言われた。私が早く起きるのを嫌ったのだと思った。

6月14日(月)巡礼10日目 テラディージョス・デロス・テンプラリオからベルシアーノス・デル・レアル・カミーノ 24km

一度、夜トイレに行ったが、6時起床を守るためにしばらく起きてベードにいたが、6時になったので起きて出発の準備をした。
雨か晴れかで装備が変わる。雨の予報ではあったが、降っていない。
ただ、風が寒い。
ヴィンセントは約束通り、コップに水を入れて、自前の沸騰機でお湯を作り、
固形のチョコレートをお湯に入れて混ぜて2杯のホットチョコレートを作ってひとつ飲ませてくれた。
外国の人は、必ず感想を求める。おいしいか?と聞いているのだろう。親指を立てて、グッドというと笑みがこぼれる。

さて、飲んでから出発。
私は、足が遅いのでと告げて先に出発。5.9km先のアルべルゲを目指す。
彼女たちも同時刻に出発しても、手前に宿泊しているので追いついてくる可能性は薄い。

今日も、道にはカタツムリが多い。うっかりすると踏んでします。気をつけて歩く。
途中で、カタツムリを写真に撮ってみようと思い、荷物を置くのも面倒なので、荷物を担いで地面に伏せてカメラを構えた。
角度が悪いので、カタツムリに触って方向を直したら、首をひっこめたままで撮影にならない。
そうしていたら、後ろから犬2匹とトラクターが来たので、道を譲った。
通過した後には、つぶれたカタツムリがあった。
悪いことをしたなと思いながら前に進む、今度カタツムリを見たら、触らないように撮ろうと思う。
すぐに次のカタツムリに遭遇、同じポーズで構える。
後ろから来た巡礼者は、行き倒れと思ったのではないだろうか。追いこして行った。
ちょっと去って行く人間をシルエットで入れる。
この辺りにも、大きな風車が多い。ドンキホーテのことを思い出した。
フランスの女性二人と追いつ抜かれつの旅となった。カメラを構えるたびに前後に入れ替わる。
ポピーの群生が美しく、緑のじゅうたんに赤い模様が入る。
5.9km先の、サン・ニコラス・デル・レアル・カミーノで朝食とパンを食べようと思いがんばる。
街に入ると、アルべルゲが巡礼道よりもそれているような印がしてあった。
他にもあるだろうと思い、黄色い矢印に従って街を進むと街を突き抜けてしまった。
戻るのもいやなので、そのまま休憩なしで次の街を目指すことにした。
風も冷たく、この先7.4km先のサグーンまで街はないので、休まず13kmを歩くことになる。
ちょっと足の具合からして無理だと思ったが、引き返すのも面倒なので、ゆっくり前に進むことにした。
まっすぐな単調な道を進む。風は強く寒い。
途中、道のわきのベンチに座り休憩をする。
途中、休憩中にヴィンセントに抜かれた。彼は、長身でスピードがある。コンパスの差はどうしようもできない。
のんびり歩いているように見えるが、あっという間に抜かれる。68歳元気だ。

水分は、ペットボトルに500mlあるので何とかなるだろうと考えた。ひたすら平坦な道を目指して行く。
途中一人旅なので休憩をとる。途中に小さな石の橋があり、そばにはムデハル式ロマネスク様式の聖母教会があった。
休む人がいたがそのまま進む。大きな街が見えてきた。よれよれになりながら、サグーンに到着。
教会にはドンキホーテの像が立っていた。門には、なぜか四国八十八か所めぐりのマークが貼ってあった。
大きな街。教会を過ぎた最初の
BARに入った。ここで、パンとコーヒーを注文。
やっと休憩ができた。外を見ると、顔見知りの巡礼者の人たちが通過して行く。
窓際に座っているので、みんな手を挙げて合図をしてくれる。だいぶ遅れたと思う。
出発すると、100mも行かない
BARにさっきの連中が集団で休憩をしていた。
結局あまりスピードは変わらないのだと知る。街のは、壁に芸術的な
POPアートの落書きがたくさんしている。
サアグーンを過ぎると。道が二つに分かれる。分かれ道のバス停でバナナを食べる。
分かれ道がよくわからない。他の人たちも迷っていた。地元の車が来たので、止めて聞いた。
よくわからなかったが、とにかく教えてもらった道を進むことにした。
まっすぐな道。道は石ころでデコボコしているので、時々そばの舗装道路を歩く。足の負担が減りスピードも上がる。

宿に着くと、ここはまさしくスペインというアルべルゲ。素敵な建物だ。
ヴィンセントも到着していて一緒に申し込む、ベッドは上下の部屋になった。
4人部屋。シャワー・トイレが一つしかない。かなりの争奪戦になりそうだ。
当分使えそうにないので、ふと見ると、奥にシャワーとトイレが一緒にある。
たぶんスタッフ用だろうか。
もう勝手に使う。選択は、外に洗濯場があるので、そこで済ませる。
天気は晴れていて今からなら6時間以上太陽が出ているので乾くだろうと思い、ズボンも洗う。
みんな広場で太陽の光に当たりながら本を読んだりしてぼーとしていた。
みんな顔なじみばかり、言葉は通じないが目で話ができるようになった。
タカオと呼んで親しくしてくれる。傘の影響、そしてカメラマンということも浸透してきている。
二人もかなり遅れて到着した。街のお店が500m離れているというので、私は行かなかったがみんな買い物に行っていた。
私は、夕方少し散歩に出てみた。
風は冷たくなっていたが、教会に入ると、ミサをしていた。
同じようなスピードで歩いている二人の神父さんがミサをしていた。
10名程度の巡礼者がミサに参加していた。私は、相変わらず何を言ってるのかはわからないままで一番後の席にすわってミサに参加していた。
ミサが終了してみんな帰るとき、私が座っている姿を見て、目で合図を送ってくる。
肩をたたいたりする。ミサでは、最後にそばにいる人と握手をするのが習慣のようで、わざわざ握手をしにきてくれた。
歌のうまいスペイン人。よく出会う。
ミサが終了して、アルべルゲに戻ると夕食の準備をみんなですることになっていた。
台所に行くと、人手は足りていると言われた。
そこでテーブルにナイフやフォークを置く係りをした。何かしないと思う気持ちがあった。
全員が狭い食度に集まり、まず、自己紹介をしてから食事に入った。
みんなよく食べる。前菜は、オリーブのきいたサラダ、メインは肉の入ったスープ。これで、満腹。パンもあるデザートはリンゴ。
トイレ争奪戦を考えると、余り食べるのは得策ではないようにも思うが、体力勝負を考えると無理しても食べる。
同室の一人は、体調を崩し夕食も食べないで寝ていた。咳もしていたので、この寒さで風邪をひいたのかもしれない。

6月15日(火)巡礼11日目 ベルシアーノス・デル・レアル・カミーノからマンシジャ・デ・ラス・ムーラス 27km

6時起床。少し早めに起きてトイレを済ませた。
同室の人は、出発できなかった。がんばるようにと握手をして部屋を出た。

出発前に、もう一度トイレに行くと行列が出来ていた。前の人がなかなか出てこないので、あの短気なドイツ人がドアをノックした。
着替えをして歯を磨いていたりしていた。
私は、すぐに済ませたので、ドイツ人はグッドという合図をして笑った。
寒さの中を出発した。
玄関には、アルべルゲの大きな犬が見送ってくれた。
ひたすらまっすぐな道を歩く。平坦な道ではあるが、道は、小石の多いごつごつしているので、痛めた道にはこたえる。

高架橋の下を通過して、休憩をとることにした。道端に座り込む。少し前に抜いたフランクシナトラに似た老人が前を通過して行った。
ふと気が付くと派手な車と普通の乗用車が止まり、二人の女性とディレクターらしい男性たちが車から降りてきた。
スペイン語なので何を言っているのかはわかないが、明らかにコマーシャル関係者の匂いがする。
テレビ局ではない。近づいて来て、本を2冊手渡し、中を開いて説明をしている。サービス券のページを説明しているようだ。
多分、珍しい傘をかぶっている私を見つけてコマーシャルに使いたいのだろう。
別に問題もなさそうなのなので、了解した。本を持って女性と一緒に写真を撮りたいという意思表示なので。
そのようにしてあげたら、数枚コンパクトカメラで撮影し、ディレクターにチェックしてもらいOKがでたので、
そのまま車に乗り、ユータンして帰って行った。
目的を達したのだろうなと思い、再出発。時々休みながら、次の街の
BARにたどり着き、パンとカフェコンレッチェを頼む。
ちょっとしゃれた店。顔見知りの人たちが休憩をしていた。目で挨拶をする。
ただ、まっすぐ歩くだけ。街に着いたが、アルべルゲの場所がよくわからない。
広場に行くと、歌のうまいスペイン人がいた。彼は、まだ先に行くらしい。
堅い握手をして別れた。彼は左手、私は右手の路地に入った。矢印に従って歩いて行くと次の広場で市が行われていた。
アルべルゲの場所を聞いて、広場を抜けるとアルべルゲはあった。
近所には、スパーやBARがあった。中には花が咲き乱れた、教会とは違った雰囲気のアルべルゲだった。
受け付けの部屋には、ネットやお土産品そしてたくさんの巡礼者の写真が貼ってあった。
受付を済ませて2階の部屋に行ってベッドを確保した。
ビンセントも同じアルベルゲにいて、向かいのベッドに引っ越して来た。
アルべルゲの女性が来て、私の足を見て、スペイン語で何か言ってる。英語にも感じる。どうも足の指のテープを見て、治療をしてあげると言ってるらしい。
いくらとられるかな?と不安がよぎる。
5時に下に来いと言っているようだ。分かったというような合図をしたら、降りて行った。シャワーを浴び洗濯をして、一階の庭に干した。
ビンセントは、昼寝をいつもしている。少し街を歩いてみようと外に出た。
2時を過ぎていたので、街は閑散としている。ほとんどの店が閉まっている。
広場に行ったが、市も終わり何もなかったようになっていた。
オープンしているBARに入り、コーヒーを頼んでゆったりする。
顔見知りの人たちも入ってきてサッカーを見てさわいでいる。
自分の国のチームがでてくると顔色が変わってくる。
夕方、アルベルゲに戻ると、さっきの女性が、他の巡礼者の足をマッサージしたらい、針で刺して治療をしていた。
他の女性も同じように治療をしていた。
どうも、この店では、サービスでしているようだ。私の顔を見て、今度はあんただよ言わんばかりだった。
ビンセントが来て「彼は明日で終わりだから」と言うと、
OKと言って治療をしなかった。
その後、二人は2時間ほどいろいろな巡礼者の足を治療していた。
ビンセントが、今夜は自分の国のイタリア料理を作ってタカオに食べさせると言ってくれて、準備を始めた。
ブロッコリーを湯で始めた。少しブロッコリーが足りないので、買って来て欲しいと言うので、スペイン人の人と二人で近所のスーパーへ行った。
こで、ブロッコリーと明日食べるバナナを買った。
戻って、ビンセントに1本渡そうとしたが、持っているからいらないと言われた。
日本人の男性は、今の若い人は別として私たちの世代は、しないと言うと、イタリアでは女房が料理は作るが、
料理は好きなので作って食べさせると言ってくれた。
4人分作っているからという。同行の二人にも作ってくれているらしい。二人に言うと、めぼしい店を見つけてあるのでいらないという。
ちゃんと説明ができないので本人たちに直接言うように頼んだ。
二人分余るのでビンセントに悪いなと思い、誰か誘おうかと話したが、必要はないという。
周りの人にも言ったが、今日は巡礼者の女性が誕生日なので、みんなでパティーをするために出かけると言って断られた。
受付の場所では、ブラジル人の彼がのど自慢に、ギターの弾き語り。
彼とも、もう何日一緒の宿になっただろうか。
しかし、いつの間にか数名の男性が集まり、ワインや果物などを持って集まって来た。
一安心。その間に、私は、アルベルゲの家族の写真を撮ってあげて、メールアドレスを確認。
ついでにここでお土産を買うことにした。荷物になるのでお土産は買うつもりがなかったが、念のため数個の小さなペンダントを購入した。
安くしておいたと彼女は言った。フィフテーンと言ったがフィツティと聞き間違え、50ユーロを出したら、笑われた。
食事は、楽しく進んだ、ビンセントは私と二人で食べようとステーキを焼いてくれた。
周りのみんなはそのことを理解しているようだった。
焼き方はどうするかとも聞いてきた。美味しい食事だった。
ベルギー人の男性は、自分の食べていたモロッコで食べられるクスクスを食べないかと分けてくれる。
果物を持って来てくれたスペイン人の男性は、モモに似た果物の皮の剥き方を教えてくれた。
言葉は通じなくても温かくなる時間帯だった。
食事の片づけは、他のみんながして私を席から立たせなかった。
それでは、と記念写真を撮る。お店の女性も入って撮った。

6月16日(水)巡礼12日目 マンシジャ・デ・ラス・ムーラスからレオン 20km

ヴィンセントが朝食を食べて出発しようと言っていたので、
6時起床。今日は20kmなので、少しゆっくり出発することにした。
ビンセントはパンに飲み物だったが、私はカフェコンレッチェを飲み、一足早めに出発した。
どうせ抜かれるのはわかっていたので、早く出ることにした。今日は、最終目的地のレオン。
大きな町なのでアルべルゲに到着するのは、なかなか難しいのでレオンの街に入る前に待ち合わせて一緒にレオンの街を行く約束をした。

レオンの手前6km11時と決めた。さすがに都会に近づいたので、街並みが続く。
最高点の場所で休憩をすることにした。最近食糧事情がいいので、いつも満腹感。
ちょっとトイレの心配をしながらの歩きになった。天候は不安定で降ったりやんだり。
途中、サンティアゴから戻ってくる巡礼者に会った。烏の羽を杖につけていた。日本でいえば修験者を思わせる。
写真を撮りたいと言うと気さくに
OK。数枚撮って「エルカミーノ」で別れた。
最高点に着いたとき、巡礼道から100mほど離れた場所にある、
BARに行った。
小さな店でお客は誰もいなかった。夫婦でお店をしているみたいで、私の傘に興味を持っていたので、奥さんに傘をかぶせて写真を撮ってあげた。
御主人が携帯で撮っていたがうまくいかないので、後日メールで送ることにした。
二人の巡礼者が入って来た。神父さんたちだった。もう、顔なじみなので笑って挨拶。この二人も早いようで遅いスピード。
よく休むのが遅い原因。
外を見ると、白い犬が馬に向かって吠えていた。
早速、カメラを持って撮りに行く、馬はそのまま大きな囲いの中に入ってしまい撮影はできなかったが、私もなかに入り、しばらく撮影。
馬を入れたおじさんの顔写真も撮った。店に戻り荷物を整えて出発。
この間にビンセントに抜かれたのではないかと心配をした。巡礼者は前後にいたが、先ほどの顔ぶれとは違う。
しばらく歩くと街中に入った。
どこが街の入り口か分からない。先ほど追い抜かれていたら待っているはず。が見当たらない。
前を歩いている巡礼者について行くことにした。
しばらく歩くと増水した川を渡る古めかしい橋があり、渡ったところに公園があったので、しばらくベンチに座ってバナナを食べながらヴィンセントを待った。
前にいるのか後ろにいるのか分からない。
二人組に電話で相談した。二人はまだ、街に入っていなかった。
ヴィンセントも見ていないという。
結局、私はひとりで街の中を歩きアルべルゲを探すことにした。
インフォメーションがあったので、そこで街の地図をもらい現在位置を確認した。
東洋人だったがスペイン語しか話せないようで、会話は成立しなかった。
聞いていた話では、この街にはアルべルゲが二つあり、今夜はカテドラルに近い、アルべルゲにしようと相談をしていた。
街に入ると矢印などがなくなり、分からなくなる。
しかし、黄色のマークはあったので、とりあえずしたがって行った。
ところがどうも目指す方向からずれているような気がする。
そんな不安を持ちながら歩いていると、25分はかかると聞いていたのに10分ほどでアルべルゲに到着した。
時間が早いので、まだ開門していなく顔見知りの巡礼者が公園で待っていた。ヴィンセントはいない。
しかし、どうもこれは約束をしたアルべルゲではないことに気が付き、目的地に向かうことにした。
しかし、黄色の矢印はない。さきほど、巡礼者が右に曲がって行ったのが正解だったのだろう。
街を横切って反対側に行く必要がある。途中、道を尋ねるがスペイン語なので全く分からない。
角に警察があるからと聞いたが警察はない。
まず大通りに出て、あたりをつけて進む。英語の通じそうな人を探し、地図を指差し自分の行きたい場所を指差す。
数人目にやっと教えてくれる男性に巡り合った。彼は、50mほど引き返してくれて、私の進む道と現在地を教えてくれた。
大通りを渡ると、一人の巡礼者に出会った。彼も道に迷っていた。
一緒に100mほど歩いたが、公園が見えると「ここで昼食をする」と言って公園に入って行った。
ひとりになった私は、地図を見ながら、聞きながら何とかアルべルゲにたどり着いた。
大きな教会なので、入口にはアルべルゲと書いてなく、最初は違うかと思ったが、
通りすがりの人に聞くと間違いないというので、門を入って行くと、懐かしい顔があった。
手続きを済ませる。スペイン語と英語で話しかけてくるが、よく分からない。宿泊料は寄付ということ。
今夜寝る場所に案内をしてくれた。隣は
ENZOだった。
再会を喜ぶ。奥には、ブラジル人の彼や数名顔なじみがいたが、たぶん多くの顔なじみは、
手前の私の間違ったアルべルゲに泊っているような気がした。
ヴィンセントには、カテドラルの近くと言ったが通じているか心配だった。
いつものようにシャワーを浴び、残りの日数に必要なハンカチなどを選択して、ベッドに干した。
ここは、男女は別の様だ。受付に着いたとき、久しぶりに日本人と思われる女性に出会った。
「ジャパニーズ?」と聞くと。「そうです」一瞬ほっとする。
話を聞くと来月からベトナムの病院へボランティあで看護師として赴任するので、それまでに巡礼の道をたどりたかったが時間が足りないので、
途中バスを使ってショートカットしながらサンティアゴを目指すと言っていた。
レオン見物はすんだのでと、ポイントを書いた地図をくれた。
これを見ながらレオンの街を動くことにした。
ENNZOは、最初のころから一緒になることが多かった。
どこが最初の出会いかはわからない。写真を見ると、ここにいたというような具合。
彼を意識したのは、教会のアルべルゲで、写真を見せてもらったのがきっかけ。
コンパクトカメラながら、私にはないユニークな画面にびっくりして「素晴らしい」と言ったのがきっかけで、会うたびに見せてくれるようになった。
巡礼最後の日。荷物の整理もあり、
ENZOに持って来ていた宮島とダライラマの写真集を進呈した。
「これは、1組しか持っていないので、内緒でプレゼントします」と告げた。彼は大変喜んでくれた。
もちろん「幸紙」も進呈していた。
彼は、私の右手をとって、巡礼者のマークである矢印の入ったブレスレットをつけてくれた。
二人は無事着いたがヴィンセントはついに来なかった。二人で街に繰り出した。
まず、アルべルゲのそばの
BARに入った。何か飲もうという。
ワインが良いと言うので、同じものを頼んだ。つまみを食べなら大きなワイングラスに入った、赤ワインを飲んだ。
片言の英語で話しをする。立ったままだったが気を利かしてくれたのだろうか、椅子に座ろうと誘ってくれた。
しばらく
BARにいてからカテドラルに向かった、10分もかからない。
カテドラルの中を、ゆっくりと見学をして歩く、高い天井、ステンドグラスと感心するばかり。

Enzo
はサンティアゴの教会はここよりも大きく、もっと素晴らしいと話した。
サンティアゴはお金持ちだからという。
しかし、私は見ることはできない。カテドラルの中は、撮影禁止のマークが貼ってある。
遠慮をしてカメラのキャップをした。見ているとみんなコンパクトカメラを構えて撮っている。
私もこっそり、数枚を撮った。中には、フラッシュを光らせている人もいる。30分ほどいてから、外に出て繁華街を歩いた。
レストランはまだオープンしていないので、狭い路地にはいり、商店を覗く。
路地では街角に立って歌を歌っている芸人もいる。この街は、まっすぐな道ではなく、とにかく路地が多い。
古い街なので、外敵から守る知恵なのではないだろうか。ほとんどの路地を歩いた。
彼は帽子が好きらしく、帽子を展示している店の前で写真を撮ってほしいと言うので、撮ってあげた。
1時間ほどして、レストランへ食事に行くことにした。決めた店があるようで、路地を見ながら探していた。こだわりというか、妥協をしない。
私などは、適当な店に入ってしますが、執拗なほどに探す。
この日は、スペインとスイスのサッカーの試合があり、街全体が盛り上がっている。
BARの外のベンチ御には、サポーターが集まりさわぎながら応援をしている。
スペインカーラーは、赤とオレンジ。とにかく派手だ。どうやら試合も終わったのか、解散をして分散をし始めていた。
勝ったのか負けたのかわからない。
WIN」と聞いたが反応がない。負けたようだ。
若い女の子たちが旗を持って集合写真を撮っていた。横から撮らしてもらったら、一人が乗ってもっと撮れとアピールしてきた。
アップで撮る。画像を見せてあげた。みんな大笑い。
店先でエルビスの等身大とにらめっこをしている女の子を見つけた。もう一回そのポーズをしてと言うと、喜んでしてくれた。
そんなことを繁華街でやった。
やっと、お目当てのレストランのある路地を見つけ、少し歩いて店に入った。少し暗い、雰囲気のある店だった。
すでに、巡礼者と思われる二人連れの女性が食事をしていた。奥の席に二人で座った。
店の人が注文をとりに来たが、スペイン語なので全く何を言ってるのかわからない。
Enzoが英語で通訳をしてくれた。
前菜は、スープとサラダ メインは魚と肉どうするか?と私は、サラダと肉を頼んだ。彼はスープと魚を頼んだ。味はおいしい。
ワインとパンは付いてくる。ゆったりとした時間を話をしながら過ごした。
家族のことから始まり、神の話にまで及んだ。
Enzoは同年代。3年前に17年か暮らした女性と再婚したという。
息子と娘がいたが、数年前に息子が病気で亡くなったという。
返す言葉もないので「グランドファーザー・ファーザー・息子と言い、順番を指し、ノーグッド」と言うと彼は、涙を流していた。
人間は同じなんだなと思った。奥さんの歳を聞くと48歳という。
「ヤング」と言うと笑っていた。私の家族のことも話した。「アイアム グランドファーザー」孫が一人いて、間もなくもう一人生まれると。
彼はボローニャに住んでいるという。
具体的には、どの場所かはわかないが、イタリアの北の方らしい。
私が体験した、神について話をした。そうすると彼も「私も同じような体験をした。耳元でトライ・トイという言葉が聞こえてきた」という。
歩いていて、無の状態になったり、苦しい時に感じる体験なのだと思った。
しかし、私の英語力でこのような話ができるのは不思議だった。
ハートを指して、彼のハートを指さしたら。
そうだという仕草をした。不思議なことではあるが、ミュージックのように感じる各国の言葉が、なんとなくわかるようになってきた。
何を話しているのかという程度だが、話の中に入れるようになった。
デザートもなんとか種類から選び食べることができた。料金は、10ユーロくらい。日本に比べると格安。 アルべルゲに戻る途中。アルドに頼みごとをした。
ヴィンセントに会えなかったことを話し、ヴィンセントに約束したことを果たせなかった理忠も伝えた。
このままでは、傘を持って帰ることになるので、できたらアルドに託するので、今からサンティアゴに向かう途中に会うことがあったら渡してほしい。
もし、会うことがなければアルドに進呈する。
と。彼は「プロミス イズ インポータント」と言い快諾してくれた。
念のために、二人組に確認をしてもらったが、大丈夫ちゃんと伝わっていると言ってくれた。
会う可能性は薄いが、代わりにサンティアゴへ行ってほしいという気持ちもあった。
アルべルゲでは、8時からミサがあるので帰る。隣の教会に行き、ミサに参加。
シスターが中心になりミサは終了した。厳粛な雰囲気だった。各国に訳した本を渡された。
英語版をもらったが、どこを読んでいるのかは分からなかった。

6月17日(木)

今日は、もう出発をしなくてもいいという安ど感で目が覚めた。
6時起床。みんなごそごそ準備をしていた。顔見知りを見送りに行った。
私たちがここで終わりであることを知った人は、ひどく寂しい顔をした。男同士は堅い握手をする。ハグをしてくる女性もいた。
記念写真を撮り、メールアドレスの交換をする。6時30分順次出発していく。二人も涙を流して別れを悲しんでいた。
7時過ぎには、ほとんどの人が出発していった。ヴィンセントが立ち寄るかと待ったが結局会うことはなかった。
心残りだった。ENZOは昨夜の約束通り、傘を持って出発して行った。
もうひとつのアルべルゲまで行けばよかったと思ったが、自分の足の痛みには勝てなかった。
8時には、アルべルゲは閉鎖される。私たちのレオン出発は、22時過ぎなので荷物を預かってもらうことにした。
21時までは、自由時間。この時間をどう過ごすかを考える。
カテドラルに行ってみたいが、9時過ぎまでは開かない。
前日知り合った韓国の若者二人と一緒に観光をすることにした。
二人は今夜は、6km先のアルべルゲに23時までにつけばいいので、レオン観光をするという。
では、一緒にということになった。8時になったので、カテドラルのある広場に行った。
まだ、
BARはほとんど閉まっていたが、観光地なので数件のBARが開き始めた。
しばらくベンチでカテドラルを見てから
BARに入って朝食をとる。
私は、菓子パンとカフェコンレッチェ。2ユーロ。
彼らは、ジュースとハムの入ったサンドイッチ。6ユーロ。あまりの高さにびっくりして、
ボッタタクられているのではないかと不満を口にして文句を言いに行った。
結論は、サンドイッチは4ユーロだった。手をかけたものは高いという結論。
8時30分過ぎ3人でカテドラルに入った。まだ、観光客も少なく閑散としていた。
めぼしい場所の写真を撮る。
撮影禁止ではあったが、観光客はお構いなしに撮っていたので、誰もしない時間帯を狙った。
フラッシュは使わない。韓国の若者も撮っていた。
30分ほどカテドラルの中にいて出た。
近所にある美術館を巡ってみようということになっていたので、まず、カテドラルの周りを1周した。
通勤の人や観光客、そして巡礼者の姿もある。物乞いをする人も数人いた。
近所の美術館は、スペインを代表する画家の専用画廊だった。10時オープンなのでしばらく待ったが、開館する様子もない。
入口で、ブザーを押すと開門して入れてくれた。スペイン式なのだ。無料だった。
3階まであり、油絵を中心に展示がしてあった。スペイン風というのか、ダイナミックな色使いと暗い両極端な作品が展示してあった。
年代によって違うのだろうか。1時間近くかかって見た。
印象的な作品。ピカソ・ダリにも似ているが、全く違うものもある。なかなか日本人には表現が難しい作風。
その後、しばらく歩いて博物館へ行った。お金を払い入場。ここは、歴史的なものが多かった
。アレキサンダーも登場する。考古学的な色合いが強い。撮影禁止なので記録には残せない、自分の心に残すことにした。
次は、少し歩きメイン通りのような場所にある格調高い建物。ガウディの設計と聞いてまじまじと眺める。
中は、商工振興会的な展示物が多く、近代の作品も多く展示していた。
撮影
OKと聞き違いして撮っていたら、スタッフから注意されたカメラを収めた。
かなり、歩いたので足が疲れてしまいなんとなく辛い。アルべルゲの近くに戻り、
BARでワインを頼む。
白ワインが出てきた。外のベンチに座り日向ぼっこを兼ねて座る。
ここで韓国の連中は、韓国の友達を探してカテドラルに戻って行った。
一人になった。
私はアルべルゲの見えるベンチで、ワインを飲みながらパンをかじりながらしばらくいた。
なぜここで座ったかと言うと、1日遅れで来ているだろう、巡礼者の知人を待つため。
アルド・スイスの人たちだった。アルべルゲが二つあるので、ここに来る可能は薄かったが待った。
アルドは無事着きあることができた。
しばらくアルべルゲの受付付近に座って荷物の整理などをしていたが、十分に時間があるので、今度は一人でレオンの街を歩いて写真を撮ることにした。
何度か歩いカテドラルを中心に、路地に入り街並みを撮った。
一人のこともあり、足を引きずりながら自由に動けた。
1時間あまり、ふらつきながらかなりの距離を歩いて街並みを撮影し、途中の公園で昼寝をしててアルべルゲに戻った。
巡礼者がどんどん到着してくる。
しかし、まるで別世界の人たちのように感じた。同じ道を歩きながら、1日違うと感情の交流はない。挨拶も忘れてしまう。
これは四国遍路の時にも感じたことだが、人間とは不思議な生き物だ。
同じ釜の飯を食べると仲間や同志になる。コーラーとお菓子を食べながら来る巡礼者を眺めていた。
日本人の60才前後の二人組に出会った。一人は、2回目だそうで、バスを使いながらサンティアゴを目指すと言っていた。
もう一人日本の男性にもあった。東ヨーロッパから、スペインのバルセロナで1週間過ごしたのち、レオンからサンテァイゴを目指すと言う。
情報が欲しいと言うので、私のこの2週間の経験を話してあげた。バルセロナの様子も聞いた。
素晴らしい場所だと絶賛をしていた。アルドと二人組と4人で夕食を食べに行くことになった。
その前に、カテドラルに行き、最後のスタンプを押してもらった。2ユーロ払って有料スペースに入り、押してもらったついでに見学をした。
中庭に面した通路の彫刻は素晴らしかった。しかし劣化も激しく、修復をしている最中でもあった。
急いでアルべルゲに戻り、食事をする場所を探した。お目当てはあったようだが、昨日のお店であることが判明。
合わせて、時間が早く、開いているレストランが少なく、だいぶ歩いたのちに、オープンしている
BARに入った。
店は、一杯だった。巡礼者も多くいた。
先ほどの中年二人組女性もいた。それぞれで注文をしてビールを飲みながら歓談。アルドの人柄でその場が盛り上がる。
二人組がトイレに行こうとして、私の座っている椅子の横を通った時、
ドスンという音がしたので、振り返ると二人組の看護師さんが床に倒れ、目を開けたまま天井を見ていた。
みんなあわてて駆け寄った。
あまり動かさない方がいいということになり、同伴の女性が声をかけていたが、本人は何のことかわからない様子できょとんとしていた。
数分して、立ちあがり何もなかったようにトイレに向かった。
結局、さわがせたお詫びを言って店を出て行った。
アルべルゲに戻り、バス乗り場に行く時間が近づいてきた。
親しくなった巡礼者の仲間に「幸紙」を進呈した。携帯に娘から来た英文訳を見せると理解できたようだ。
「プロテクト」ということがが戻ってきた。家を守るという意味では間違いはないので、「そうだ」と返事をして渡した。
一緒に握手をしたり、記念写真を撮ったりしていよいよお別れ。みんな涙を流しながら見送ってくれた。
ここから30分ほど歩くと、バスセンターに着く。川のそばにあるセンターに向かう。
川を渡っている時に、向こうから来るカップルの姿を見て、カメラを構えるのも忘れた。
女性がトップレスで、乳首まで丸見え。唖然としていたら行ってしまった。バスセンーは閑散としている。
トイレに行くが、危険を感じてすぐに戻る。センター内には、セキュリティーなのか不審人物なのか男性が立っていた。
出発の時間が近づくと、学生の一団が現れにぎやかになった。10時30分レオンを出発した。

6月18日(金)

マドリッド空港着は、翌朝の3時30分。にぎやかなバスがマドリッドに向かった。3時マドリッド空港に突然到着。
第一ターミナルは、ここで降りるように言われ、あわててバスの横に積んだ荷物を出して下車した。
二人は、次のターミナルなので、挨拶もそこそこの別れだった。
飛行機は、午前10時30分発。出発まで7時間30分。
空港はまだ閑散としている、本当にこの場所でいいのかが分からない。とりあえず、
KLMの受付カウンターを探す。
そばにあるインフォメーションで聞くが、スペイン語なので何を言っているのかわからない。
途中であった韓国の女性にばったり出会ったので、聞くと、インフォメーションで聞いてくれた。
やはり、違った場所を教えられていた。受付までは2時間前なので、5時間近く待つほかはない。
そばの通路に座りこんで時間をつぶす。
7時代に出発する飛行機が多く、だんだん人が増えてきた。
成田ではプリントを見せて搭乗券を発行してもらったので、それらしい機械とスタッフがいたので、プリンを見せた。
すると、あちらを指さして、行けという。指さす方向には何もない。
KLMのマークもない。
どうなってるのだろうとしばらく様子をみたが、結論が出ない。
仕方ないので、反対側にある
KLM航空のマークのあるカウンターにプリントを持って行った。
すると、最初に目星をつけた場所を指して、そこへ行けという。自動チェックの機械の方を指ささない。
7時搭乗の受付が済んで、受付カウンターが空になった。
まだ5時間くらいあったが、このすきにと思い、自動チェックの機械に行き、スタッフにプリントを見せると、機械を操作した。
搭乗券が出てこないので「チケット?」と言うと、受付カウンターへ行けという。。
まだ相当早いけれど長蛇の列に並ぶのも嫌なので、行ってみるとすんなり受付をしてチケットを発行してくれた。
ラッキーと思いながら今度は出発ゲートに向かった。喫茶店に行きコーヒーを飲んだりお土産のスペインの帽子を買う。
Fの何番と書いてあるが、早いためにゲートが決まっていないのだろう。
やっと太陽が昇って来た。マドリッドからアムステルダムまでは、飛行機は2時間30分。食事も出たが、ひと眠りで着いた。

アムステルダム空港は、広い。ここでのトランジット時間は、4時間。
すぐに、次のステージに向かう。
X線による手荷物検査を無事通過。
今度は出国手続き、何百人もの人が、いくつもある受付に並ぶ。一番短い列に並び前に進んでいく。
だいぶ近づいた時、受付には
UR専用受付と書いてある。私は、allという列に並ばなければならなかった。
振り返ると何百人もまた、並んでいる。あそこに戻るのかと思うとうんざり、後ろの人にパスポートを見せて、「
URオンリ?と聞いた。」
「大丈夫だかこのまま行け」というような言葉を言った。
周りにいた
UR以外の人は、どんどん列を離れたり、隣の列にまぎれこんだりしている。
私は、腹をくくり駄目だと言われたその時、スライドして潜りこもうと覚悟をして前に進んだ。
日本人だと思った女性は、どうも台湾か香港の人ではないだろうか、英語で話して来て通じない。
私の3人くらい前の夫婦は、受け付けてもらえなく列を変えるために戻って行った。
私の番になり、不安そうな顔をしてチケットとパスポートを出した。黒人のスタッフ。顔を見て「どちらへ行きますか?」と日本語で聞いた。
ジャパン・成田・カムバックマイホーム」と言った。「気をつけて」とスタンプを押して通過させてくれた。
周りの人は驚いた様子だったが、セーフ。
出発まで時間があるので、ぶらぶらする。飛行機の中は寒いので、靴下を購入。
帰りは、足が痛くトレッキングシューズは、リュックに入れて荷物として預けた。
ビーチサンダルでは、機内は相当寒いと予想。ベンチに座って、マッサージをしながら時間をつぶす。
他にすることもない。
小腹がすいたので、カフェでパンとコーヒを頼む。少し落ち着いて、飛行機に乗り込むことにした。
11時間のフライトだ。退屈な時間をどう過ごすか考える。
通路側の席、最初隣に日本人の男性が座ったので、良い話相手ができたと喜んだが、
窓際の若い女性が同伴の女性と離れ離れりなったので、席を代わってほしいと要望。
快諾した男性は、どこかに行ってしまった。隣の女性は「超・・・。」という言葉を連発して友人と話していた。
話す気もなくなり、結局一言も会話を交わさなかった。サービスで見れる、映画を3本見た。
そのほかは、食事をしているか眠っているだけ。

6月19日(土)

気分的には案外早く成田に着いた。11時前。荷物が出てくるのに小1時間かかった。入港手続きは、30秒で終了。すぐに終わった。
「スペインの巡礼の旅に行って来ました。」「ご苦労さまでした」荷物は、ほとんど無い。

携帯電話を返却。ユーロを円に交換してから、13時15分の
JRで武蔵小杉に向かった。
成田エキスプレスで80分くらい。武蔵小杉に着いたが、東横線に乗り替えるため500m以上を歩かなければならない。
足は腫れあがり、歩行困難。苦しい道のりを越えて、元住吉へ到着。
ここで薬局に行き、バンドエードとバンでリンを購入。孫の待つ家に向かった。
10分で着くはずの道が、足の痛みで前に進まず何分かかったのだろうか、気の遠くなるような時間だった。
家に着くと孫の颯太君は寝ていた。しばらくして起きてきたが、不思議な顔をして、寄ってこない。
20日前には、あんなになついていたのに、忘れてしまったのか?ひげ茫々の顔では分からない様子だ。
何時間して、声を聞いて思い出したのか、笑いながら寄って来た。








Hello Takao

I'm Sandra from Italy  . Many thanks for the photos: really beautiful!
I've seen also your homepage and forwarded it to some friends: your photos
make me remember many things of the camino, thanks.

I remember a photo you take in Bercianos little chapel: you can see the window
at sunset... if possible could you send  me also this one?

Many thanks

Sandra 

Dear Takao

many thanks. I like your photo very much, they make me feel strong emotions.
Really the eye of a photographer is special!

Thanks
Sandra



Dear TAKAO, i'm luky to have a friend  like you. In few days i wont download
the fotho from camera Olimpus, then i send you the best.
Yes i've found Vincenzo of Genova and completed my mission.
I hope you are in wellness, my family love very much your books of splendid
fotho of nature and dalay lama.
My addres il:
TULLINI ENZO
VIA SANUTI, 4
40037 SASSO MARCONI (BO)
ITALY
By dear friend.
Enzo




Dear Takao
I am very happy to hear from you. I have the addresses in a folder on a friend's house and therefore had not been written yet. Et do not understand much of your homepage text but the photos are magnificent. Thank you very much!!
These are some of the pictures, I hope you do well, if you're interested in any:
It is a pity not to have coincided bit longer but it was nice. I hope you liked the experience.
You know if you come to Spain again, call me and I hope you come to my house in Tarragona ...

ciao,Takao dear friend. In Santiago,Enzo has delivered to me your hat-When I am
arrived in LEON, I decided to go next albergue in Virgin del camino ,about six
Km from Leon,because I should like the hat remained to you,and also because I
don't like 'the good bye:Whatever I like the  hat,and the holewhich is
aboveI'll adjusted it.Many thanks also for the photos very nice.As I'd tell ,if
you like to come in Italy whith your wife,I can offer hospitality in my house ,
in Liguria.A hug also for your wife,Annarita e Vincenzo